2021.4.16
市電車両、廃線跡、ドクターイエロー……鉄道博物館を抜きにしても、梅小路は鉄道好き垂涎のエリアらしい
噂の広まり
それは、ポテルスタッフまで持ちこまれたいくつかの写真から始まった話。
「ホテルがあるこの場所、前はこんな感じで使われてたって知ってるか?」と、近所に住むおじいちゃんが、自分で撮影した写真を見せてくれたのだ。
ポテルのある梅小路界隈は、その昔、国鉄職員官舎や巨大な貨物駅があった場所。
「鉄道にまつわる街の歴史も大切にしてくださいね」というおじいちゃんの提案を受け、このあたりに生まれ育ち、廃線ウォッチャーとして活躍する中村浩史さんと、梅小路界隈の鉄道にまつわるポイントを探し歩いてみることに。
<プロフィール>
中村浩史(なかむら・ひろし)
京都生まれの京都育ち。実家の家の前には市電が走っており,幼少の頃から市電の音を子守唄に育った廃線ウォッチャー。物心ついた時からカメラを手にし,鉄道の写真を撮り始める。京都市電の廃線跡を中心に巡り、これらをまとめたWebサイトを立ち上げた。著書に『京都市電の廃線跡を探る』(岐阜新聞情報センター)。
・HP:京都市電の廃線跡を探る
この記事の内容
・梅小路公園は京都市電の聖地である
・かつての東海道線の痕跡を求めて
・電車見の特等席でドクターイエローを待つ
梅小路公園は京都市電の聖地である
中村さんと待ち合わせたのは、ポテルのロビーにあるカフェ。吹き抜けになった大きな窓からは、京都市電の保存車両がすぐ目の前!
中村さん:こんなにも絶好のロケーションだとは私も知りませんでした。市電を見ながらお茶できるんですね。梅小路公園には今、全部で8両の市電が保存されています。
というわけで、カフェで腹ごしらえをしてから、まずはポテルの目の前、4両の市電が保存されている「市電ひろば」へ。
中村さん:ここ市電ひろばにあるのは500形、700形、800形、1600形の4両。公園内にはちゃんと1形式につき1両ずつ保管されているんです。好きな人が見ないとわからないかもしれませんが(笑)、すべて形が違います。
中村さん:この車両には当時の路線図がそのまま残されていますね。実は昔、この市電車両がまだ公開されずにこっそり保管されてた頃に車両の掃除を手伝ったことがあって。そのときは、昔の車内広告も全部残ってたんですけどね。
中村さん:もともとは車掌さんも乗せてツーマン車両として走っていたのですが、合理化を図ってワンマンカー仕様への改造が進められたんですね。車両の外側に描かれたオレンジの帯が、ワンマンカーの印です。
市電ひろばには、かつての市電の路線図がタイル上に記された場所も。京都の街を縦横無尽に走っていたことがよくわかる。
京都市電は1978年(昭和53年)に全線廃止。最盛期には20を超える路線、150以上の停留所があったという。
―1路線だけ白い線になってますね。
中村さん:これは何が違うかといえば、線路の幅が違ったんです。そもそも日本で最初に電車が走ったのは京都で、明治28年(1895年)京都電気鉄道という民間の会社が、現在の京都駅近くから伏見区の京橋まで路面電車を走らせたのが始まりです。その後の明治45年(1912年)に京都市が京都市電を開業。しばらくはこのふたつの路面電車が混在した後、大正7年(1918年)に京都電気鉄道が京都市電に合併されました。
―線路の幅が違うというのはどういうことなんでしょう。
中村さん:京都電気鉄道は狭軌(きょうき)というJRの在来線などと同じ線路幅で、京都市電は新幹線などと同じ広軌(こうき)だったんです。合併後は京都電気鉄道がつくっていた路線はどんどん広軌へと整備されていきましたが、ただひとつ、この北野線だけが狭軌のままで残り続けたんです。そのことがこの白い線として表されてますね。
―わかる人にはわかる表現がなされてるんですね。……もしや京都市民にとっては、それくらい常識なんですか!?
中村さん:ではないと思います(笑)。私の場合、生まれた家が七条通に面していて、家の前を市電が走ってましたから。
―中村さんはいつから鉄道好きでしたか?
中村さん:親父が鉄道ファンだったので、その影響でもう子どもの頃から。初めてカメラを持ったのも小学校4年くらいで、初めて撮った写真も京都市電でした。今出川線が廃止になる直前に、親父と撮りにいったのを覚えています。
先にも書いたように、梅小路公園には8車両もの京都市電が保存されている。ここで、市電ひろば以外の4両もまとめて紹介しておこう。
中村さん:市電展示室にあるのは、京都市電が開業した明治45年(1912年)につくった車両の広軌1形と、もう1台、狭軌1形といって京都電気鉄道時代につくられた車両。こちらは週末だけ子どもたちを乗せて公園内を走ってます。個人的には、貴重な明治時代の車両がバッテリー駆動に改造されてしまったのが残念なんですが……。
屋根がなく雨ざらしで置かれた車両の様子さえも「ちょっと気になる」というほど、とても市電愛の強い中村さん。もうひとつ、梅小路でとっておきの市電にまつわる遺構を教えてもらった。それがこちら。
注目ポイントは桜……ではなく、その向こう。橋を跨ぐように立っている電柱だ。
中村さん:梅小路公園の東側を走る大宮通は、JRの線路をまたぎ越す橋になっています。これ、昭和10年(1935年)につくられた橋で、この橋の上を市電が走ってたんですね。その名残りとして、市電の架線柱が今なお残ってます。
中村さん:ほぼ注目されてませんけど、この橋の足もとに広がる空間も、石畳になっていてなかなか風流なんですよ。いいでしょ。
かつての東海道線の痕跡を求めて
大宮跨線橋を眺めながらかつての市電の走る姿を想像していたところ、「実は私が通っていた中学がすぐそこなんです」と中村さん。それが京都市立梅逕(ばいけい)中学校。明治期に開校した歴史ある学校だったが、2007年、少子化に伴って閉校に。
中村さん:梅逕=ばいけいって難しい字ですけど、逕を訓読みすると道や小道になるので、つまり梅小路という意味なんです。
―さすが、京都らしい名付け。その頃から橋の下の石畳は気になってましたか。
中村さん:もちろんですよ。そして、実はこの中学校の北べりが旧東海道線の線路跡で、明治9年(1876年)には、ここに大宮駅という国鉄の「仮の駅」が開業しました。
―仮の駅ってどういうことでしょう。
中村さん:京都駅が開業したのは明治10年(1877年)。京都駅ー神戸駅間に鉄道が走ることになっていたのですが、その工事が遅れていたので、ひとまずここに仮で大宮駅をつくり、その後に京都駅の正式な竣工に合わせて明治天皇をお呼びして開業式が行われたんです。
―そうだったんですね。
中村さん:この話は、中学校内で発行されている学校新聞に書いてあったんです。開通したばかりの東海道線って、今の線路よりも北側を走ってたんだということもそれで知りましたね。
東海道線の開業時、今よりも北側を線路が通っていたことは、古い地図などからも確かめられる。こちらは中村さんが持参してくれた大正時代の地図。
かつては、梅逕中学の北側、梅小路公園の中ほどのルートを東海道線が走りぬけていたのだ。今ではその線路跡をたどることはほぼできない。しかし、その痕跡を感じることができるほぼ唯一の場所が、梅小路公園の南西隅にあるという。
中村さん:ここが開業時の東海道線が走っていた痕跡がわかるポイントです。決してインスタ映えするような場所ではありませんが(笑)。
―中村さんにとって、こうした廃線跡をたどる楽しみってなんなのでしょうか?
中村さん:ひと言でいえば「ロマン」ですけど、歴史的な背景だとか昔の姿を想像しながら歩くのが、とてもおもしろいと思うんです。鉄道はその周りの街とも密接な関係があるものですから、廃線跡をたどるということは今、目の前にある街とはとまた違った街の姿が見えてくることにも繋がります。
廃線跡ではないが、そのほかの明治時代の鉄道遺産を梅小路で見ることができる。現在は鉄道博物館のミュージアムショップとして使われているこちらの木造建築は、かつての二条駅駅舎だ。
中村さん:京都から舞鶴にいたる山陰線は、もとは京都鉄道という民間の会社が敷設した路線なんです。その京都鉄道の本社を兼ねて、この二条駅舎が明治37年(1904年)に建てられました
―すごく立派な建築ですね。
中村さん:京都鉄道の玄関口でしたからね。本当はもう少し大きな建物だったのですが、山陰線が高架化されたときに駅舎の場所を移動させ、建物のスパンも短くなりました。
そして鉄道博物館の目の前には山陰線と並走するかつての貨物路線がある。2016年に廃線となったこちらの高架は現在、「梅小路ハイライン」という名前で屋台のフードコートとして活用されている。
電車見の特等席でドクターイエローを待つ
ここまでの記事を読んで、「週末に取材したほうが、市電展示室も梅小路ハイラインもオープンしていてよかったのでは」と思われた方もいるかもしれない。けれど、あえて取材日を中村さんと相談してこの日に設定したのは、ドクターイエローを梅小路で見るというもうひとつの目的があったから。
ご存知の方も多いと思うが、ドクターイエローとは、新幹線の線路のさまざまな設備を測定するために、およそ10日に1度のペースで走行している「新幹線のお医者さん」。その黄色い独特な見た目と、走行日が公表されていないことなどから、「見ると幸せになる」なんてウワサも。ドクターイエローが走行する姿を見た人が報告を上げる掲示板まで存在するため、なんとなくこの日、この時間に走るだろうという予測を立てることができるのだ。
というわけで、梅小路公園を巡りながらドクターイエローを待つことに。
梅小路公園をぐるぐると歩いた後は梅小路ポテルの客室へ。新幹線の走る姿がよく見えるというのだ。
さらにポテル宿泊者に限り、屋上に上がることもできるというので、最高のポジションを確保して、ドクターイエローの通過を待つ。そして……。
「あ、来ました!」とカメラマンが叫ぶ。ドクターイエローがその姿をあらわした。
……あっという間に通りすぎていった。目にしていた時間、およそ1分ほど。幸せになるかどうかはわからないが、貴重なものを目にしたという高揚感は今でも忘れられない。
映像でもどうぞ。
動画埋め込み
中村さん:幸せのドクターイエロー、見てしまいましたね。最高の観覧場所でした。ここから今度は「トワイライトエクスプレス瑞風」を見てみたいとか思ってしまいます(笑)。個人的には、子どもの頃から横を通り過ぎるだけだった貨物駅が公園に、そして、友達が住んでいたので遊びに行っていた国鉄官舎の跡がこのポテルになったので、昔と今が入り混じってすごく不思議な気持ちになりました。
中村さんの案内のもと、自らの足で歩いて、目で見て、想像を働かせて、自分なりの鉄道<野外>博物館を結んでいくような試み、だったともいえる今回の梅小路散策。鉄道スポットや廃線跡を巡るといえば、マニアな楽しみと思われがちだけど、中村さんが言うように「鉄道」と「街」は隣りあって発達してきたものだからこそ、鉄道を知ることは京都をより知ることにつながっているし、京都市電にしても、当時の車両がいまも松山や広島で活躍していると教わって、随分と身近なものにも思えてきた。
企画編集:光川貴浩、河井冬穂(合同会社バンクトゥ)、竹内厚
写真提供(敬称略):中村浩史
撮影(敬称略):原祥子